ふつうということ
あたりまえのこと、
自分にとってあたりまえのことでも、他人にとってはあたりまえじゃなかったり
他人にとってあたりまえのことでも、自分にとってはあたりまえじゃなかったり。。
あたりまえとか、ふつうってほんとは人によってぜんぜんちがうのに
どうして基準をつくりたがるのだろうね
「ふつうさー、◯◯だよね?」てやつ
ほんと、ふつうってなんだろうね?
世間いっぱんでも、あるグループの中でも、ふつうって多数決、多数派のことだと思うんだけど
それがふつうとは限らないし、ましてや正しいのかも疑問
正しいのか正しくないのかというのも、あるのかないのか
これもまた、基準だよね
なにかをジャッジする必要て実はそんなになくて
ジャッジをしたがるから、そこにふつうとかふつうじゃないとかの基準が必要になってくるのであって
ありのままのものを受け止める
そこにいいとか悪いとかの判断をつけない
自分がしたいのか、したくないのか
ぴんとくるのか、こないのか
こころがうきうきするのか、しないのか
とびつくのか、躊躇するのか
ねこまっしぐらなのか、ねこ見ぬきもしないのか
自分のことをジャッジしない、決めつけない
人や物ごとのこともジャッジして決めつけるとは、なんておもしろくなくて、そしてこわいことなんだろうと思う
また、自分にとってあたりまえのこと、ふつうのことが
実は、そうではなくて人の役に立つこともあるかもしれない
考え方とか技術とか、知恵とかなんでも
「こんなのみんな知ってるよね」とか
「こんなのみんなやってるよね」とか
わざわざ言わなくてもいいよねって思ってることが、実はすごく画期的なことかもしれない
察するとか、以心伝心、テレパシー、とかあるけど
でもやっぱり、声に出さないと正しく伝わらないことも多い
そう、なんて多いんだろう!
だれがふつうで、だれがふつうじゃないのか
なにがあたりまえで、なにがあたりまえじゃないのか
どっちもふつうだし、どっちもふつうじゃない
どっちもおんなじだし、どっちもおんなじじゃない
どっちもどっち
いいも悪いもない
自分を信じていれば、“ふつう”に惑わされることはないし、
人を“ふつう”の枠にはめて判断することもない
どんな人でも物ごとでも、いろんな側面がある
ちがいをおもしろがること
まあでも、結局は人生、どこに重点をおくのかによるのか
それもわたしの“ふつう”てあって、だれかの“ふつう”ではないのだね